駆け込み訴えで学ぶスピリチュアルと現実
「駆け込み訴え」というのは太宰治の短編で、ユダがキリストを売る時の心情を描いた話です。
初めてこの作品を読んだ当時は、正直BL要素しか見てなかったんですが(炎の蜃気楼という作品がありまして…心情がよく似てるキャラがいるのです…)スピリチュアリストとなった今、読み返してみるとなかなかスピリチュアリストのリアルを描いているなあ…と感慨深いものがありました。
以下、内容について触れていますので、先にこちらにてご覧いただく事をお勧めします。
まずユダが、
(以下引用)「その日のパンにも困っていて、私がやりくりしてあげないことには、みんな飢え死してしまうだけじゃないのか。私はあの人に説教させ、群集からこっそり賽銭(さいせん)を巻き上げ、また、村の物持ちから供物を取り立て、宿舎の世話から日常衣食の購求まで、煩をいとわず、してあげていたのに」というセリフを言っています。
これは聖書の方の記述がこうあるかは不明なのですが、キリストの集団の中に現実的に切り盛りする事のできる人間がユダ一人しかいなかった事を表しています。要はあまりにもスピリチュアルな事ばっかり言っていて地に足ついていないんですね。これは現代のスピリチュアリストにも陥りがちな現象です。理想だけ言ってちゃダメなんですねー…現実に口に糊する手段も考とかないとならないわけです。
だけれども彼はこうも言っています。(以下引用)「私だけは知っています。あなたについて歩いたって、なんの得するところも無いということを知っています。それでいながら、私はあなたから離れることが出来ません(略)…あの人は嘘つきだ。言うこと言うこと、一から十まで出鱈目(でたらめ)だ。私はてんで信じていない。けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。」
言うまでもありませんが、これがキリストはスピリチュアリストとしては偉大です(なんせアセンデッドマスターですし)その美しい精神性そのものに、ユダもまた惹かれていた、現実のメリットは皆無でもついていって面倒見てしまう魅力があった、とも言えます。共依存にも近くありますが。ユダがキリストの精神性に依存し、キリストがユダの才覚に依存していたとも解釈できますね。精神性そのものだけでこれだけユダに愛されるキリストが、羨ましくもあります。
こうして書くとキリストの集団の中でユダだけが、スピリチュアルな才覚を持たないただの商人のように見えてしまうのですが、なかなかどうして、こう現実的に生きている中でもユダはスピリチュアルな能力を知らず知らず発揮しているのです。
(以下引用)「私は、ひとの恥辱となるような感情を嗅(か)ぎわけるのが、生れつき巧みな男であります。自分でもそれを下品な嗅覚(きゅうかく)だと思い、いやでありますが、ちらと一目見ただけで、人の弱点を、あやまたず見届けてしまう鋭敏の才能を持って居ります。」
本人は下品な嗅覚、程度の認識ですが、これも立派なスピリチュアルな能力です。自分の恥に敏感だから、他人の恥にも敏感なのかもしれません。
ひょっとしたら総合的なバランスでは、キリストよりもユダの方が優れていたかもしれませんね。ただしこのバランスの取り辛さゆえに悲劇が起こったのかも。キリストはキリストであの突き抜け具合が必要ではあったのですが。
短編はその後もユダが怒ったり喜んだりして終わるのですが、私としては「これこの二人がちゃんと話しあったら何とかなったんじゃね?」という感じはぬぐえません(笑)せめてユダが思った事はっきりと口にする子だったら、結末は変わっていたような気はします。ユダは察知する能力も十分なんですよ、キリストとも嫌なくらいコンビネーションできてるんですよ。発言する要素があれば口げんかくらいで済んでたんじゃないかなあ…と。
どうしても高い精神性を保つためにグラウンディングがおろそかになりがちな事象というのはあるんです。最終的にはどっちもできるようになるのが完成形なのですが、なかなか一朝一夕にはできない。というわけでそっちが得意な人間を近くに置く、というのも一つの選択です。
そう言った場合、パートナーというのは非常に重要な間柄なので大切になさって、特によく話し合ってください。
くれぐれも、裏切られぬように。